Essay

日本ではなかなか奏者が出て来ないアルゼンチンのチャマメという音楽を1999年から専門に演奏して来た牧田ゆきが七転び八起きの音楽人生を語ります。


Essay

チャマメを心にさまよったパリ

パリは美しい町だ
アパートの近くのマレ地区の
ピカソ美術館はお気に入りの美術館。
ルーブル美術館へは何度も行った。
オルセー美術館には入ってすぐの所に
竪琴のかたわらで悲しげに膝を抱えている少女の像があって、
寂しかった私の心を捕えて、
時々、見に(会いに)行った。
セーヌ川のほとりは楽しい人たちが集って来ていた。
裏道に入りこんでもセーヌ川に出れば
何とかアパートに帰ることができた。
チャマメを心にさまよったパリ。
夏、休暇で人が少ないパリ。
マエストロ・バルボサ師匠夫妻に支えられて
初めての海外生活はワクワクする日々であった。

2023年6月13日

パリとパリの中の小さなアルゼンチン

ラウル・バルボサ師匠のレッスンは必ず夕食付き(笑)
時にはレッスンの後に北欧に住んでいる
タンゴ歌手スサーナ・リナルディさん(きれいな人だった)を招いてのパーティーがあって
私は「佐渡おけさ」を弾いたこともあった。
(金子先生時代にアレンジしたもの)
パリでは学校に通っているわけではないので、
なかなか日本の人と話す機会がなく、
バルボサ師匠夫妻はパリでの親代わりになってくれた。
レッスンの後、夜11:00位になってしまい
アパートの暗証番号が変わって入れなかった時も助けてくれた。
スーパーの買い出しも、ご飯作りも一緒にやった、たくさんの思い出。
マエストロ・バルボサが演奏旅行に行ってしまうと
私は孤独で、パリをよく歩き回った。ひたすら歩いた。
1日10km近く歩いた日もあった。
そして、だんだんパリが好きになって行った。

2023年6月12日

R・バルボサ師匠(チャマメのレッスン)

エキセルシャーのコンチネンタル中型12kg弱の
アコーディオンを背負ってブラントーム(ポンピドゥセンターあたり)
から47番のバスに乗って
ノートルダム寺院の横を通り、
セーヌ川を横切りバルボサ師匠の家へと、バスを降りて、
坂を登る途中で休みながら坂を登る。
12kgは147cmと小柄な私には
とても重い。バスのドアにアコーディオンが
はさまって困ったこともあった
不思議と、いつも助けてくれるのは
アラブ系の人たち。きっとこのパリで
苦労しているんだろう。優しい人が多かった
マエストロの家の通りに出ると
アパートの窓から
いつもマエストロバルボサが顔を出して
待っていてくれた。
レッスン、まずマテ茶から始まり
私はともかく音を出したいのに
師匠は譜面を書きたがる。
ピアソラの友人のチェロ奏者から
譜面を書くことを教えてもらったとのことで、
長い長い時間をかけてマエストロは
譜面を書いている。
キロメートロ11は
まるでバルトークのミクロコスモスのようだ。
私はともかく一緒に弾いてくれて
チャマメを感じたかった。
マエストロがそれをわかってくれるには
少々時間がかかったが・・・。
レッスンは、奥様のオルガさんの夕食支度の
いい匂いと共に終わり、
夕食をごちそうになり、
帰宅すると出かけてから8時間は
経っていた。
懐かしい懐かしいパリの中の
アルゼンチン。

2023年5月12日

ラウル・バルボサ師匠(マテ茶とギターのチャマメのリズム)

師匠R・バルボサと初めて出会い
言葉を交わしたのは
まだレッスンの約束をする前だった。
へやをお借りしたカトリーヌが
バルボサ師匠の家へはどうやって行けば
いいのかを一緒に出かけて教えてくれた日。
「この通りね」と話していた時に近くに
車が止まりそこからアコーディオンと荷物をおろし
始めた人がいた。
え?まさか!!でもとても似ている・・・。

「Perdon Senor?!」と
声をかけるとやはり本人で
私が名乗ると大喜びして
アルゼンチン式の挨拶をしてくれた
彼はヨーロッパを回る演奏旅行から
帰って来た所であった
疲れていたにもかかわらず
家に招いて下さり、
チャマメの話、そしてギターのチャマメのリズムの
弾き方を教えてくれた(このリズムはチャマメにとってものすごく大事なものである)
ライブハウスでギター弾き語りをした経験が
大いに役立った
その日は当然私はアコーディオンを
持っていなかったので
マテ茶を頂きながら
ワクワクする時間を頂き
レッスンの日を決めて帰宅した
今でも鮮明に覚えている
運命が引き合うような日だった

2023年5月11日

パリ、チャマメ留学

1999年5月7日。
雷の中、飛行機はパリに着いた。
晴れたかと思うとすぐ雷。そんな不安定な天気。
一部屋借りたお宅はポンピドゥーセンターが窓から見える便利な地域。
私は初めての海外生活で3日間部屋から出ずにアコーディオンを弾き続け、曲を書いた。(CD行雲流水のBrantômeはこの時に作曲した)
部屋に何も無いので良く響いて気持ちが良い。
4日目、食べるものも無くなってきたので外に出た。そこはフランス、パリ。聞こえて来る言葉はフランス語。行きたかったアルゼンチンではない。
マエストロ・バルボサはヨーロッパ演奏旅行中でまだ連絡は取れず、私は孤立していた。
日本のようなコンビニが無い。スーパーに行く。
レジのお会計の数字をわざと見せてくれないおばさん店員。フランス語で数字、聞き取れない……。
見様見真似で何とか食材を買う。
電子レンジ、オーブン、洗濯機、一切使えず…。
しかしながら、フライパンで焼いた食パンは美味しかった。手洗いのジーンズはなかなか乾かず、ドライヤーで乾かす。
今思えば何でも不自由無く使える日本での生活から一時離れたことは貴重な体験であった。
(日本に帰ってからは電子レンジ、オーブントースター、洗濯機は何て便利なものだろう!!と感激だった。)
花の都パリ。
ここに憧れる人は多いだろう。
しかし私はパリを楽しむまでには少し時間がかかった。

2023年2月16日

反対されたチャマメ留学

アコーディオン研究家の渡辺芳也さん、名古屋在住のバルボサ氏と親交のあったアコーディオン奏者の角谷さんのおかげで私はラウル・バルボサ氏と連絡を取ることが出来て、演奏テープを送り、弟子にして貰う願いが叶った。
留学前は多くのアコーディオン関係者の方から「チャマメを学んでも日本ではやっていけないからやめなさい」と言われた。
そのような言葉で心が変わるようなチャマメへの思いではない。私の意志は固かった。
私の熱い思いを全力で応援してくれた渡辺芳也氏、留学前に知り合い1回チャマメのライブを共にした南米フォルクローレ音楽ギタリストの寺澤むつみ氏、そして角谷さん。
私はひとりじゃない。

13㎏のアコーディオンを背負ってラウル・バルボサの住むパリへと旅立った。

2023年1月7日

チャマメとの出会い

1998年9月12日。
「スーパーアコーディオンコンサート」M・アゾラさん率いるフランスのアコーディオン奏者が数人演奏(フランス在住を含めて)

私は前から1列目か2列目の席だった。
クラシックアコーディオンの「熊蜂の飛行」の演奏が終わって、次は何かな?とプログラムに目を落とし、
何か空気が変わった気がして見上げると、アコーディオン、ギター、パーカッションの3人がそこにいた。
第一声からそれは心地良かった。
ステージ上の空気が活き活きしている!
今まで私が知っていたアコーディオンの音では無かった。カルチャーショック。
K・ベーム&ウィーンフィル以来の衝撃だった。
それはラウル・バルボサ・トリオ。
1部最後の15分の演奏。
休憩時間、私は宙をフワフワ歩いている感じだった。仲間が席の傍にいたが私は完全にバルボサ氏の音の中に入り込んでいた。
それが「チャマメ」だった。

その日買ったバルボサのCDを聞き込み、銀座山野楽器でも、CDを買い、
夢中になった。
「弾きたい!」
耳コピーをしたが判らない奏法がたくさんある。カセットに入れて僅か1、2音を徹底的にコピーした。
どう弾いてるのか?
それはクラシック音楽のアカデミックな学びには全く無いものだった。
次第に、直接習いたい。という願望がムクムク起き上がり、
金子先生に訴えると「南米音楽なんて…。ヨーロッパの方がいい」とはねのけられた。
それでも諦めない私に、金子先生はついにアコーディオン研究家の渡辺芳也さんを紹介してくれた。
彼ならきっとバルボサ氏に辿り着けるだろう。と…。

2022年12月28日

歌が育ち、再びアコーディオンへ

小劇場の音楽に関わっていた頃は泉のごとく曲が湧いていた。
一日中ピアノに向かい曲を作る毎日。
「アコーディオンだけでなく歌のCDを作って欲しい」とお客様に言われたことがあるが、歌が育ったのはこの頃だった。ずいぶんライブハウスに歌いに行ったものだ。
音大受験前にソルフェージュの先生に「あなたは声楽科でもやれる」と言われたことがある。
声の質を評価してもらえたのか、音程を評価してもらえたのか、分からないが。

そんな頃のある日、夕食後に父がオーストリアで買ってきたアルプス音楽のアコーディオンのCDをプレーヤーにかけた。「こんな風に弾けないだろ」と言われ、アコーディオンを久しぶりに押し入れから引っ張り出して来て…。
楽しい!!
それが、アコーディオンに戻るきっかけだった。
私はそのCDのボタンアコーディオンに興味を持った。習ってみたい。
楽器屋さんに紹介されたのは金子万久先生。
お宅に伺いお話をすると「あなたはそれだけピアノ式アコーディオンを弾けるのだから、そのままピアノ式をやる方がいい」
と…。
レッスンに伺い1ヶ月もたたない内にディナーショーや屋形船でのアコーディオン演奏の仕事を下さり、
先生は「海外留学してアコーディオンを学ぶと良い」
と私に言い続けた。

そんな時に出会ったのは「チャマメ」だった。

2022年12月21日

小劇場の音楽

音大卒業後、時は折しも「小劇場ブーム」
大学時代から作曲を始めていた私は、この頃、いくつかのお芝居の音楽を担当させて頂いた。
特に印象に残っているのは「酸素工場」 
「つちのこカンパニー」
独特で魅力的な脚本家、演出家たち。
役者さん達の息使い、
空間に放たれる台詞たち。
小屋の匂い。
大衆演劇の大きな劇場では出せない魅力!
作曲した曲を生演奏して、それが役者さん達の台詞と調和して行く醍醐味。

あの独特の空間が終演して、渋谷ジャンジャンの階段を上がり、町に出た時の不思議な感覚。

とても貴重な日々であった。

2022年12月20日

暗黒のオーボエ時代

音大に入って、リードを削り、練習に明け暮れる日々。
だんだん「音色」というこだわりが大きくなり、
最初にぶつかったのは、フランスのロレーのオーボエでは憧れのウィーンの音は出せないという事。
リード削りで私なりに努力したが…。
当時はウィンナーオーボエは買えるものだとは思ってもいなかった。
1970年代ウィンナーオーボエはウィーン近郊のオーボエ工房に後継者がいなくて危機だったそうだ。
そしてヤマハが研究を重ねて1980年にウィンナーオーボエの試作1号が出来たらしい。
私が入学したのはそれより前…。

私は暗黒の時へ突入した。
出したい音が出せないオーボエ、そして競争。
私は正直、逃げ出した。
そして自分の音楽を求めてひたすら、さ迷い続けた。
歌舞伎座で聞いた能管の音に興味を持ち福原百之助先生に日本音楽について教えを頂きに行ったり、長唄を経験したり、曲を作りライブハウスで歌ってみたり。ギターも触ってみた。
今思うと全ては今の私の音楽の肥やしになっている。

暗黒の音大時代は、それでも福原美男先生やN響の小島葉子先生、茂木さん。
先輩と行ったコンサートでリードを見せてくれた宮本文昭さん。
優しく気遣って下さった素晴らしい先生方のおかげで、さ迷いながらも、辛かったけれど、今がある。

2022年12月20日
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