楽しい高校のオーボエ時代

高校に入り、オーボエを習い始め、学校では室内楽班。
時々トラ(エキストラ)で隣の高校の吹奏楽部からも呼ばれて、楽しいオーボエ時代だった。

高校2年、進路を決める時に私は音大受験を選択した。それからというものの、中学校の音楽の恩師にソルフェージュ、聴音、副科のピアノを教えてもらい、受験に向けてオーボエはフランスのロレー、ピアノも買ってもらって、毎日、唇がタラコになるまで練習した。(お金のかかる子供だ…。両親に感謝)

まだ恐いもの知らずの本番に強かった私は、入学試験前日に不安で上手く吹けなかったのに、あの日はホールの暗闇に向かって上手く吹けた事をハッキリ覚えている。

高校までのびのびと、明るくやって来た私を待っていたのは、厳しい競争の世界だった。

2022年12月19日

オーボエとの出会い(それはウィンナーオーボエ)

幸せなことに、両親は私をたくさんの演奏会に連れて行ってくれた。
中学校の帰りに上野文化会館へ行ってヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィルの「モルダウ」を聞いて気持ち良くなってウトウトしたり、バイエルン国立歌劇場来日の時のオペラ「ドン・ジョバンニ」にワクワクしたり、まだまだ数え切れないたくさんの凄い公演を、感じやすい思春期に聞くことが出来た事は心の財産となった。

そして決定的だったのは、1975年1月27日(モーツァルトの誕生日)都市センターホールでのウィーンフィル木管五重奏団演奏会。オーケストラと違いひとつひとつの楽器を身近に聞ける室内楽で私の心を捉えたのはオーボエ。
私はその音色に恋をした。
オーボエはヴァルター・レーマイヤー(Walter Lehmayer)
2カ月後、彼らは再びカール・ベーム指揮ウィーンフィルの公演で来日した。
この時のコンサートはNHKのテレビやFMラジオで放送され、私はカセットテープで毎日毎日、聞き続け、オーボエへの気持ちは揺るぎ無いものとなって行った。
あまりに夢中になっている私に両親は都立高校入学と共にアメリカ製のプラ管のオーボエを買ってくれた。

これが、それから続く、長く曲がりくねった厳しい音楽への道の始まりだった。

2022年12月16日

幼い頃のアコーディオン

音楽好きの父が弾いていたアコーディオンの音に親しんで私は育った。

小学校入学前から先生について習ったのはオルガン。新宿コタニでのグループレッスン。みんなと同じ事を弾くのが嫌で嫌で、すぐにやめた。結局、家に先生をお呼びしてのレッスン。しかしながらお転婆の私は毎日泥んこになって友だちと外を走り回り、母は私を探し回ってレッスンに連れ帰るのが大変だったようだ。

アコーディオンはいつも家にあった。小学校の運動会の行進の音楽隊でアコーディオンを弾いた時に父はエキセルシャーの小さいアコーディオンを買ってくれた。
父に教えて貰って、あの頃かなり夢中になって弾いた記憶がある。習いには行かされず、多いに楽しく弾いていた。
まさか将来この楽器の専門家になるとは夢にも思っていなかった。
父が弾いていたアコーディオンはウィンナーワルツや歯切れの良いドイツのマーチ。
ポルカマズルカが起源にあるチャマメに繋がる下地はこの頃にあったのかもしれない。

2022年12月15日

まえがき

アルゼンチンのチャマメという音楽。
日本ではまだまだ知られていないこの音楽を演奏して来て23年の月日が流れた。
2001年頃には多くのメディアで取りあげてもらい「なんとなく覚えている」という方もおられるかもしれない。
2003年にリリースしたCD「風がたどった道」(キングレコード)がCDラックの片隅で眠っているという方もおられるかもしれない。

私がチャマメと出会ったのは1998年のコンサートでのラウル・バルボサの演奏。
音楽仲間が言うには、音楽の神(ミューズ)が「“この音楽をお前に与える”と言われて心に入って来たんだよ」
そうかもしれない。
私はあの日心だけが宙を浮いているような感覚に襲われた。
私はチャマメと出会うまでたくさん音楽を経験し彷徨い続けていた。
音楽を志して20年近くたって出会ったチャマメ。
その迷い道、寄り道はすべてチャマメに繋がっていたと感じている。
たくさんの挫折。
七転び八起き。
日本人の私が外から感じるアルゼンチン音楽チャマメの魅力。
私の音楽感。
アコーディオンの魅力。
これから語って行きたいと思う。

2022年12月10日